学舎

 その時分の事は余り覚えていない。人に習って学校へ通い、人に習って勉強をしていた様に思うが、それだけだった。自分がぼんやりと過ごしたせいもあるだろうけれど、嘗ての学舎が取り壊されると言った報せを受けた際も、私にはどこか遠くの他所事に感じられてならなかった。
 晩になると藤沢が来た。折角だからと言って頻りに私を連れ出そうとする。これと言って断る理由はなく、行けば何か思い起こされる事もあるだろうと言う気になって来たので、付いて行く事にした。
 月に掛かった雲が明かりに解かされている。山と往来がごたごたになった様な道だった。藤沢とは家が近かったので、いつもこの道を連れ立って歩いた。あそこの木立の前を通る度に猫が出て来て足許に纏わり付く。そこで私は持って来たパンや何やらを食わせてやる。今はもう居ない。
「トシとかも行くって言ってたからな、ちょっとした同窓会だな」
 藤沢は上機嫌に言った。
「トシ、て誰だっけ」
「お前、マジかよ。ロッカーに稲中揃えてた奴だよ。バスケ部の」
「うわ。思い出したわ。俺んちに五巻が今もあるわ」
「お前だったのかよ」
「持って来とけば良かった」
 坂の上からそよ風が降りて来て、擦れ違い様に頬を撫でて行った。山の影と見分けが付かないが、あの丸い様な形は屋上の水溜めだろうと思う。
「しんちゃんは居るんかな」
「誰だっけ」
「お前。マジで言ってんの?」
「うそうそ」
 その内に校門が見えて来た。暗いので良く分からないが、そこいらを何かうろちょろする様な気配を感じる。この分だと中は大層賑やかになっているのだろうと思う。
 格子の門は閉ざされているけれど、隙間の広い造りになっているので擦り抜ける事には難儀しない。そうして中へ入り込むなり「皆探して来るわ」と言って藤沢はどこかへ行ってしまった。
 この場に一人で突っ立っているのも面白くないから、私は校舎へ続く中庭をうろうろした。いつ頃かの卒業生が植えて行った桜の樹や、誰か偉そうな人の立派な胸像、先っぽに時計の据えられた鉄塔が、皆々夜の色に隠されて暗く沈んでいる。薄っすらとした記憶の内にある姿を重ね合わせて見ても、何か勝手の違う様な気がする。
 いつまで経っても藤沢は戻って来ない。身の回りには誰だか知らないけれど、相変わらずそこいらを行ったり来たり、どこかを出たり入ったりする様な気配が感じられる。自分もこの気配の一つとなっているのだろうかと思うと、急に気持ちがそわそわし出した。
 私は玄関の所まで行くと、開け放しにされた扉を潜った。下駄箱の前に立ち止まり、靴はどうしようかと考えたが、上履きがないので土足で上がり込む事にした。
 校内にはもう電気が通っていないらしく、外から来る月の明かりがあちこちの形を仄かに浮かしていた。廊下の歪んだ塗り床がぬらぬらと光っている。水面を見る様だった。辺りは森閑として、先程まで外で騒いでいた気配はどこへ行ったのだろうかと思う。
 職員室の前を過ぎ、階段を上った。ぺたぺたと言った風な自分の足音ばかりを聞いた。教室へ行って見ようかと考えている。どの道藤沢も捕まえた連中を引っ張って教室へやって来るだろう。もしかすると嘗ての学友がもう居るかもしれない。居た所で誰だか分からないだろうけれども、会いたい人間は居ないが、会いたくない人間なら何人か居る。そうした人間と出会すのは少しばかり嫌だね。やっぱり止して置こうか。
 一人で色々の気掛かりをする内に、気が付くと教室の前に立っていた。三年次の組だった。記憶が曖昧だった所で、体は勝手を覚えているらしく、私はいつもの様に引き戸の取っ手に手を掛け、ゆっくりと開いた。
 そこまで早く着いたつもりはなかったが、教室には人が少ない。あそこの席で寝入っているのは誰だったか、西川だか西口だか、とにかく西の付く名前だった様に思う。中頃に集まった三四人は似ているので区別が付かない。それでも男ならまだ良いが、女になるとこれはもう殆ど分からない。窓際で笑い合う者も、机を向かい合わせて勉強する者も、女だから私には分からない。しかしこんな所で突っ立っていても仕様がない。自分の席へ行って座った。座ったなりで何をするともなく、ぼんやりとしている内に教室は生徒で賑わい出し、やがて先生が入って来て朝礼の段となった。
 お昼は藤沢と外の何人かで上がった。自分が人に構わない質だったにも関わらず、こうして構ってくれる者に恵まれた事を幸いに思う。一緒になって勉強をし、運動をし、悪さをした。どれも一人では出来ない事だった。
 その日の過程が漸く済み、放課の頃合いになった。自分はもう用事なぞ何もないから、さっさと帰ろうと思う。
 廊下へ出ると、突き当りの窓から西日がまともに射している。塗り床の照り返しに目が眩み掛けた。私は教室に鞄を忘れた事に気が付く。ぼんやりするにも度が過ぎるだろうと内心で自嘲する。再び教室へ入る為、引き戸の取っ手に手を掛ける。
「三好君」
 原田の声だったのでその方を見た。西日が逆光となって見え難いが、廊下の向こうに確かに人影があった。
「ちょっと良いかな」
「もう帰るけど。俺」
「そっか」
 何でもない風な声が却って可哀想で、このまま帰ってしまうのも具合が悪い様に思われて来た。
「あれだったら、途中まで一緒に帰るか」
「ううん。ご免ね」
「そうか」
 そうして暫くの間、二人で取り留めのない話をした。明日の天気はと言った様な、些細な事柄だった。私は原田から目が離せなかった。今となっては顔も碌に思い出せやしないが、だからと言って近付いて眺め回すのも失礼だろう。
 引き戸の向こうから微かに藤沢の声がした。「どこ行ったんだ」だの、「待ってりゃその内来るだろ」だのと言った会話の合間に、時折笑い声が混じった。あの暗い中でよく見付けて来たものだと思う。
「もう行く?」
 原田の影が西日に伸ばされて、私の足許まで来ている。
「いや」
 こうした事を、或いは幾度も繰り返して来たのかも知れない。
「もうちょい待たしといても、良いや」
 やっぱり逆光で見えないが、その顔には微笑が浮かんだ様に思う。(了)