夜からおいで

 本家から暮れに頂いた何やらのお返しをしなさいと頻りに母が言うけれども、そう言った物事を取り仕切るのは私ではない上に、段取りやら作法やらを一切承知している訳でもない。嫌だが昔から使いとして方々へ参じるのは私の役目であるから、仰せの通りにさっさと済ませてしまうつもりでいる。
 昼の遅くに家を出て一人で車を走らせる内に、細い県道の周りからは段々とものの影が薄まり、やがて田んぼと山しか見えなくなった。擦れ違う車も少なく、歩道を歩く人影なぞ勿論ない。
 山の向こうに良く晴れた空が冴え冴えと抜けていたのも先程までの話で、本家の近所までやって来た頃には、琥珀を溶かした様な色が雲間から流れて辺りに降りて来ていた。
 県道を逸れて山の方へ向かい、両脇に竹が鬱蒼とする筋に着くと車を停め、母から持たされた風呂敷包みを抱えて外へ出た。
 冬の風が竹を鳴らす音を総身に聞き、私はすっかり薄暗くなった筋へ入った。車の通れない程狭い筋が暫く続き、竹の根っこが足許をでこぼこにしているので、知らずに来たお客さんは難儀するだろうと思う。
 西日らしい曖昧な色が、竹の隙間から見え隠れする。幼い時分、本家に飼われていた白い大きな犬を連れてよくここへ来た。馬鹿な犬だったが人から離れなかった為、綱も付けずに竹藪の中へ入り、一人と一匹でそこいらを闊歩したものだった。猿や狸、猪の小さいものなど、色々の生きものを見たが、皆逃げるとも襲って来るともなく好き勝手にごそごそしていたのが、今にして見ると不思議に思われる。どこから拾って来たのか知らないけれども、頭巾を被った猿や煙管を咥えた狐を見た様な覚えもあった。しかし何分昔の事であるから、やっぱり記憶違いだろう。
 筋が終わり、周りが開けて来ると、水の少ない川の向こうに本家のお屋敷が見えた。山の隙間に辛うじて収まっている様な佇まいが懐かしかった。
 玄関まで行って戸を叩いたが、中から返事はなかった。私はお勝手の方へ回り声を出して呼び掛けた。自分の声が消えた途端に辺りは元の森閑とした空気に戻った。傍らの古びた犬小屋を見ると、中には木板の切れ端が詰まっていた。
 どうやら留守であるらしく、仕様がないから出直そうかと考えながらお勝手の戸に手を掛けて見ると、何の滞りもなく開いた。土間を通って上り框まで行き、「上がるよ」と声を掛けながら私は靴を脱いだ。返事はない。
 長い廊下には外の明かりが少しばかり入り、何でもない所をまともに照らしている。明かりのある所より外はすべて影であるから、それらが切り替わる境目の加減が甚だしく、見詰めていると前後の釣合いが覚束なくなって来る。
 私は廊下に沿って沢山並ぶ障子の一つの前で立ち止まり、そのままのなりで座った。そうして手を掛けて静かに開き、真礼をして中へ入った。
 入った先は仏間であるから、部屋の奥には仏壇がある。案内がなければこちらの勝手だろうと言った風な気になって、勝手に蝋燭を灯し、勝手に香を焚き、勝手に拝んだ。仏壇の隣には床の間があり、気味の悪い程盛られた生花が色を浮かせていた。
 暫く花を眺めて、すっかり気が済んだので、荷物はどうしようかと言った事を考えながら腰を上げて振り返ると、襖の前に老婆が座っていた。この褪せたお屋敷の続きものであるかの様に、硬く小さい。僅かな明かりに照らされて陰る顔は笑っているらしく見える。私は非常に吃驚したが、この家の大婆様である事が直ぐに分かったので、
「ご免。勝手に上がったよ」と言った。
 返事はなく、婆様はこちらを向いてにこにことしている。
 私は座り直し、母から言付かった風呂敷包みを差し出した。
「これ。うちの母さんから。よう分からんけど、なんかのお返しだって」
「ああ。ああ」
 まるで変わらない表情のまま婆様は大袈裟に頷いた。
「大きくなってから。結構な子やね」
 耳の遠いのは昔からの事であったが、近頃はもう大分悪い様だった。
「ほんならもう、帰るよ」
「それがええ。ゆっくりしてお行き」
「もう帰るから」
 口の動きを読めるようにゆっくりと言ったが、どうにも伝わっていない様に思う。
「みんな来とる。遊んで行ったらええ」
「みんなって。誰もおらんかったよ」
「ああ。ああ」と婆様は一層笑顔を深めて、
「あたしあ下がっとるから。気兼ねせんでええ」と言った。
 焙られた様な色は徐々に沈みつつあり、間もなく夜が来る事が分かった。
 婆様は離れに引取り、いつまでも仏間に居ては具合いが悪いので、お屋敷を出てから外を流れる川の縁まで来た。
 黙って帰ろうかとも考えたけれども、婆様の言った事が気に掛かる。川に架かる小さな橋の上に立ち、見え過ぎる程に見える星々を眺めた。その家なりの事情はあるだろうが、本家の人間はどこへ行ってしまったのだろうかと思う。しかし今帰って来られた所で、それはそれで何だか気まずくて嫌だね。
 川に何か投げ込まれた様な音がした。その方を見たが、真黒で何も見えない。
「みなちゃん」
 川に何か投げ込んだ様な声だった。
「みなちゃん。しらぬいのいきんぞく。ここに居たら駄目だ」
 私の名前が美奈子なので、みなちゃんとは私の事だろうと思う。
「どちら様でしょうか」
「非道い事言うじゃないか。友達だったろう」
 友達と言った言葉の響きが、どうした訳かおそろしかった。
「もうあの家には何もないんだ。何も居ない。夜からおいで。みなちゃんの事を誰も知らないから」
 何を言っているのかさっぱり分からなかった。もう帰ろうと思った。
「いいね。夜からおいで」
「もう夜になってるじゃないですか」
「さあ早く。鉄平も待ってる」
「鉄平はもう死んだのに」
「今も居るさ。竹藪に」
 私は竹藪の方を見た。
 黒々としたざわめきが、段々とこちらへ迫って来る様な気配が感じられた。いきなり真白の犬が大きな顔を出し、
「結構な子だこと」と言うなり真赤な舌をぺろりとぶら下げた。(了)