台風

〈改訂版があります ことらをおすすめします〉

 家から少し山に入った所に、古びた神社がある。明け方に台風が来ると言う事であるから、雨戸を閉め、屋外の小さな物を中へ仕舞った後、その神社へ向かった。
 空の高い所では雲が渦巻く様であるが、辺りは段々と静まって行く。周りの立木や奥に見える竹藪が、植物とは思われない程に大きく揺らめいているが、葉の擦れ合う音がはっきりとしない。鳴っているのだろうけれど、他所事の様に感じる。音までもが風に巻き上げられると言う事があるのだろうかと思う。
 境内から少し下ると小さな空き地があって、周りが開けているから眼下に町がよく見渡せる。向こうの山際に薄っすらと跡を残して、陽は沈んでいた。町の灯りが身を寄せ合って、谷底で団子になって竦んでいる。
 全身を毛羽立った空気がはたいて過ぎると、別の方向から同じ様な空気が過ぎて行く。掴む事ができそうな厚みを持った塊であった。狛犬や灯籠が倒れやしないかと心配になったが、心配した所で自分にはどうする事もできない。ゆっくりと倒れるのを想像すると、少し怖くなった。
 何か、木の葉の様なものが眼前を過ぎたと思うと、自分の体が宙に投げ出された。吃驚して体を固くした時には山よりも高くなっていた。
 履いている草履が脱げ落ちないように、足先を窄めて堪えながら、これが風の速度かと思う。自分は今、空に居るのであるが、下の方を見ると地面は空よりも暗い。自分がどこからやって来たのか、もう分からない。台風の風であるならば、目に向かっているのだろうか。目には風が無いと聞いた事があるから、そこで自分は墜落するのだろうか。
 雲に入り、辺りが霞んで見るものが無くなったのでぼんやりしていると、傍を大きな白鶴が過ぎて行った。静かに、するすると遙か先まで行って、やがて見えなくなった。
「今晩は」と声がしたからその方を見たが、雲ばかりでよく分からない。
「誰か居るんですか。すみません、僕の方からは見えないんです。雲に入っちゃってるから」
「雲ばっかりで、大変な事ですわ。さっき雨に当たって、少し濡れてしまいました」
 輪郭の筋が通った、女の声であった。
「失礼かも知れませんけど」
「はい」
「ついさっき、僕のすぐ近くを鶴が飛んで行ったんです。あんまり大きかったもんだから」
「まあ、それが私だって仰るの」
「大変失礼な事とは存じますけども」
 くすくすと、笑った様な声がした。
「その鶴なら、多分、私も同じのを見ました。鳥はやっぱり空の上じゃ器用ですのね。こんなに風が強いのに、澄ました顔をしてるんですもの」
 上も下も無くなっていた。風に飛ばされて随分経った様に思うけれど、数分の出来事の様にも思う。
「どちらから来られたんですか。僕は市内からなんですけど」
「私、可部の方から来ました」
「他にも居るんだろうか」
「お年寄りなんかだと、お辛いでしょうね。息苦しくって」
 そう言われると、空気が薄くなっている様な気がし始めた。
「洋服のお店で働いているんですけど、お店を閉めて、帰りに友達と食事をしようと思ってたら、風に飛ばされちゃって。長いこと一人でしたから、もう駄目か知らと思ってたんですけれど」
「これも何かの縁だ。今度あなたのお店に寄ってみますよ」
「嬉しいわ。是非いらして」
「それにしても、一体これからどうなるんですかね」
「心配要りませんわ。きっと何とかなりますわよ。飛び上がったのに降りられないなんて理屈はありませんわ。猫じゃあるまいし」
「そうですね。自衛隊か何かが来てくれるんでしょう」
「ええ、きっとそうですわ」
 足の下から鋭い風が吹き上げると、急に雲が終わった。一面の暗闇であるが、その中に目の覚める様な天体の明滅が散らばった箇所があり、そちらの側が空である事が分かった。
 星々を遮る様に、大きな影が横切った。あの白鶴だと思った。
「どの辺りなんでしょうね」と女の方へ顔を向けると、黒い紐が絡み合って球形になった様なものが浮かんでいて、そこから「くすくす」と笑った様な声がした。(了)