冬のあわい

 真黒になった山の隙間から、未だ暮れ切っていない、水槽の様な色をした空が覗いた。自分の周りはもう深々とした夜の風情で、時折ぎいぎいと言った鳥の声がした。
 何の因縁でそうなったのか、仔細を述べるのは恥ずかしいから今は止して置くとして、とにかく私は人も車も通らない山の中の草臥れた県道を、一人でぶらぶらと歩いている。この頃は大分冷えるので、裏地に羊毛を当てた革靴を履いているのだけれども、足ばかりが温かくなる一方で、外の所は皆冷たい。
 鈴の鳴る様な音がしたらしく思われた。私の右手は森で、左手も森だった。ついでに申し上げると前も後ろも森だったが、木立の陰が被さっているのでそうと分かるに過ぎず、仮に直ぐそこへ部落や何かがあった所で私の知見は及ばない。そう考える内に再び音がしたので、今度はその方へ行って見た。道端の、萱草の群れている中に、灯籠が埋もれているのを見付けた。鈴が入っているのか知らと思ったなりで火袋を覗き込んだが、羽虫の乾いたものが転がっているばかりで外には何も見当たらない。しかし鈴が入っていたとしても、却って益々分からないだけだから一向構わない。
 夜を孕んだ鬱蒼たる森林から、細長い風の筋が幾つも流れて来る。私は身震いをして、自分の両掌を息で温めた。陽は未だ暮れない。山に隠れてしまったお日様の、その名残が空にいつまでも残っている。薄く張った水を透かして街の灯りを眺める様な気になった。山の深くに入り込んでから随分経ったから、そう言った感じを懐かしく思うのだろう。
 保奈美さんと言う女が居た。酒ばかり飲んでいる女だった。出会い系か何かで知り合ったのだけれども、確か初めて直に会った折にも足許の覚束ない程酔払っていた。
「だって。しらふだと、上手く喋れないんだもん」と言ってお昼間から麦酒を煽る姿に、私は少しばかり面食らった事を思い出す。
 次に会った際も、その次に会った際も、保奈美さんはやっぱり酔払っており、まるで子供のする様な遊びや馬鹿げた冗談を喜んだ。
 汽車が来たので二人で乗り込んで、対面の腰掛けに座った。抽斗を開ける様にするすると動き出すと、やがて線路の継ぎ目を跨ぐ感触が伝わって来た。保奈美さんの向こうに見える景色は、確かその時も、山の端に残った陽の色が空を淡く染めていた。
 灯籠の周りを少しばかり歩いて見ると、古びた石段の様なものを見付けた。もう通う者もない、忘れられた道なのだろう。先を見た所どうやら奥まで続いているらしかったので、私は石段が崩れてしまわないようにそっと上る事にした。
「隠れんぼしよう」
 麦酒の缶を持った掌の人差し指を立て、保奈美さんは言った。
「はじめは私が隠れるね」
「ここでするんすか」
 私共の外にこの車両に乗っている者は居なかったが、それでもどこか知らの見当に迷惑が掛かるのではないかと、その様な心配ばかりしていた。
「なら、次の駅で花火大会しよ」
「大会すか」
「つっちーの好きな方でいいよ」
 花火大会なぞ尚の事色々の人に迷惑が掛かると考えたから、
「じゃあ、隠れんぼでいいすよ」
「ふふふ。目瞑って、ちゃんと一分数えてね」
 保奈美さんは席を立ち、千鳥足で車両の通路を渡って行った。それからもう八年が経つ。
 大方神社や寺があるのだろうと当てを付けていたけれども、石段を上り切った先には小さな空き地と、人が腰掛けられる程の大きさをした石があるばかりだった。私は石に腰掛け、来た道を振り返った。山の高い所まで来ている様に思うが、辺りは一層静まって、夜に近付いた事がうつつに感じられる。
「もういいかい」
 大声を出したらこだまがするのだろうが、恥ずかしいからそんな事は出来やしない。
 冬の日暮れだった。未だ明かりが残っている。私はこの時間が好きだったが、気を付けていなければ見過ごしてしまいそうな程僅かな時間の、そのにおいが好きなのであって、こんなに永い事続くのは胸焼けがするから止して欲しい。
「もういいかい」
 もういいだろうと思うけれども、返事はない。(了)