ヤモリ

 駅前の広場で煙草を吸っていると、街の方から大勢の人がこちらへ向かって走って来た。何事かと思い皆が来た先を眺めると、鏡面に磨かれたビルに客船の様に大きなヤモリがへばり付いている。
 警察や自衛隊が何とかしようと試みた様だったが、全く歯が立たないらしい。近づく者は皆長い舌に絡め取られてしまうそうだった。
 夜になってもヤモリの方から銃火器やサイレン、飛行機の飛ぶ音が聞こえて来る。何かが燃えている炎に照らされて、ビルとヤモリの皮膚が煙と闇の中で銀色に光っている。ずっと眺めていると、周りの人たちは「もう駄目だ、もう駄目だ」と囁き合っている。確かにもう駄目かも知れないと思った。
 駅の方から、袈裟を着た若い僧侶が歩いて来た。背が高く、筋肉の隆起が甚だしい。素足を静かに滑らして、ゆっくりと私の所まで来た。身の竦む様な恐ろしい目をしていた。
「俺はこれから行く」
 獣が低く唸る様な声でそう告げられた。この人ならばどうにかしてくれるだろうと言う気になった。
「俺がしくじれば、次はお前だ」
 それきり僧侶は口を開かず、ゆっくりとした足取りでヤモリの方へ歩いて行った。僧侶の言った意味が解らないまま、ぼんやりと眺めていた。
 ヤモリは急に、音も無くビルの上と下を素早く行ったり来たりし出した。あの人が行ったに違い無いと思い、固唾を飲んで見守っていた。やがてヤモリは長い舌を鞭の様に振り回すと、何かを捕えた様だった。舌の先に袈裟の様なものが見て取れた。
 舌を口の中へ直し、再びビルにじっとへばり付くヤモリを見詰めながら、私は全身に凄まじい怒りと力が漲って来るのを感じた。(了)