とんぼ

 音のする事はなかった様に思うが、その晩の雨は私の肌を直に濡らした。雨の小さい滴が屋根を通り、もっと小さい粉になって寝床に降るのを見た気になった。明くる日の朝の遅くになっても未だ暗い家の中は、水を吸って膨れているらしく感じられた。
 寒の戻りもこの度で最後だろうと思う。裾を捲る厳しい風が吹くと、それきり辺りは静まり返った。洗われた空の真青な色が水溜りに映るので、私は立ち止まって眺めている。
 大きな水溜りだった。空は冴え冴えと晴れ渡っているが、往来や遠くの建物、平生この町を取り囲んでいる山々は皆真黒の影になり、切り絵を貼って付けた様に動かない。
 磨かれた鏡を誰かが悪戯に置いて行ったのか知らと、馬鹿な事を考え掛けた所で、私は水溜りの真中に何か生えているのを見付けた。近付く訳にも行かないので、目を細めて見詰める内に段々と人の指らしい事が分かって来た。一本立ちの細い指が水溜りから突き出している。爪は詰んである様だが、男のものなのか女のものなのかは分からない。
 引張って見たいが、水溜りの中へ入りたくはない。縁にしゃがんで手を伸ばしたけれども、まるで丈が足りない。箒なり転がっていやしないかと思う。柄の先っぽの所で手繰り寄せれば上手く行くだろう。そうすると虫取り網の方が良いかも知れない。しかし虫取り網には良い思い出がないから、止して置こう。子供の頃にあれで脚長蜂を取った。取ったまでは良いが、虫籠に入れようとして刺されたのが大層痛かった。
「一さん。一体何をやっているんです」
「あれをご覧よ。指が生えている」
「おや。おや」
「どうにかして引張りたいんだけれどね。水溜りがこんなだろう、入ると落っこちてしまう」
「放って置きなさいよ」
「そう言う訳にも行かない」
 指の先が幾らか緩んだらしく、微かに曲がった様に思われた。
「一さんの事だから、あれを引張れば続きが付いて来ると思っているんでしょう。何なら手伝っても構わないが、こんな日だから、きっと面白くない事になりますよ」
「どう言う事だい」
「例えば、ずっと指ならどうするんです。千歳飴みたいに、指ばっかりが後から後から出て来ると、嫌になってしまうでしょう。けれども一遍引張ってしまったものを、また元に戻すのは筋が通らない。どの道放って置く事しか出来ませんし、お空の映ったものですからね。水溜りの下は地面ではないでしょう。そうするとこんなのがあっちこっちに幾らでも出来ている。一さんの責任問題にもなりかねませんよ」
 責任と言う言葉を聞くと、私はこわくなって来た。責任を持つのは嫌だから、やっぱり放って置こうと思う。
「ほら。見てご覧なさい」
 指にとんぼが止まった。勿論私の指ではない。とんぼは暫くの間微かに羽を震わせていたが、やがて動かなくなった。そうしたなりで指の上にじっとしている。
「これでとんぼの責任になりましたね」
 そう言ったのを聞いて、私はすっかり安心した。(了)