くじら

 深い森の中には秋が根を下ろし、木立の隙間を涼しい風が伝って来るのが分かります。
 木々に隠された細い一本道を、馬に乗った若者がゆっくりと進んでいます。ぽっこ、ぽっこ、と言う蹄の音が聞こえるばかりの、静かなお昼下がりでした。
 若者は柔らかなまどろみに頭を暈されながら、森の中に居ると言うのに、鳥の詠む歌を懐かしく感じるのもおかしな風情だと考えています。黄色く色付いた銀杏の葉っぱが、頬を掠めて地面に落ちました。
 そうして暫く道を行くと、遠くに道を塞ぐ大きなひと塊が見えて来ました。おやと思いながら馬を近付けて見ると、岩か何かだと思われたひと塊は、道の上に寝転んだ大男でした。仰向けに寝転んで、すうすうと眠っています。
 若者は馬を降りると、
「これ。これ」と言って男の頬を指で突きました。
「ちょっと、もう少しそっちに避けた方が良いんじゃないかな。あそこの木の下とか」
 大男は目を覚ますと、お腹を掻きながら体を起こし、若者の方を見ました。微かにマルメロの香りがしました。
「そんな所で寝てちゃ、危ないよ」
 立ち上がると、若者が見上げる程の大きさになりました。そうして黙っているので、若者も黙って、二人は見詰め合っていました。
 茂みから二人の様子を伺っていたリスや兎やらも、愛想を尽かしてどこかへ駆け出すと、男は大きな欠伸をして、
「おれ」と言ったきり背中を向けて歩き出しました。若者は尚も黙って突っ立っていましたが、やがて馬に跨ると、男の後ろを付いてゆっくりと進む事にしました。

 大男の背中越しに道の先を眺めていると、やがて森が切れて空が見え出しました。蜘蛛の巣の様な筋雲が端から端まで引かれているのが分かります。風に乗って潮のにおいがするので、若者は海が近いんだなと思いました。
 やがて木立に囲まれた道を抜け、開けた所に出ました。眼下に濃い色をした海と、海岸の町が見渡せる丘でした。森との境目の隅っこに、石を積んだ小さな家が建っており、表の物干しに掛かった布切れが、風に吹かれてはためいています。大男はその家の方へ歩いて行くので、若者も後に続きました。
「君の家なの」と声を掛けると、男は振り返り、
「あんた」
「うん? ああ。私の名前はネイオミだよ。君は?」
「おれ」
 ネイオミはからかわれているのか知らと考えましたが、男の眼差しは静かで、その様な色は見えませんでした。
 馬を降り、繋ぐ所を探していると、不意に家の入り口に掛かった暖簾を押して女が出て来ました。
「あら珍しい」と目を丸くしてネイオミを見ましたが、直ぐに大男の方を向き、
「おかえんなさい」
「あなたがこの家のご主人ですか」
 女はネイオミの近くまですたすたと歩いて来ると、
「あんたはだあれ」
「私はネイオミと言います。森の中で、彼と道連れになったものですから」
「ブロラハンよ」
 女は長い髪をかき上げると、
「あの子の名前。未だ小っちゃいから、おれ、あんた、しか話す言葉を知らないの」
「そうでしたか」
「あたしはフーア。あの子の母親」
 ネイオミはびっくりして、
「見えないな」
 フーアは可笑しそうに顔を和らげると、
「こんな所まで何しに来たのか知らないけれど。急がないなら上がって行きなさいよ。あの子があたし以外にあんなに懐くなんて、珍しいから。お友達になってあげて」
「向こうに見える町には、同じくらいの子は居ないんですか」
「そうねえ」と言って、フーアは首を傾げました。

 ネイオミはブロラハンに付いて森に入り、野いちごの群生する谷を散歩したり、大きな鹿に見惚れたり、沢の流れに脚を浸して冷たさを感じたりする内に、ものを言わないのと変わらないブロラハンと共にあって、その表情や仕草から、彼の考える事がすっかり分かる様になりました。大きな躰をしているけれど、繊細で優しい人だとネイオミは感じていました。
 フーアはブロラハンの母親と言いましたが、時折少女の様な若々しさを見せました。ネイオミに家事の手伝いをさせる事もありましたが、何か新しい事をさせる度に、
「意外と出来ないのね」と言って嬉しそうに笑いました。ネイオミにはその笑顔が非常に可愛く見えました。

 暫く経ち、冬の風が戸口を揺らす朝、ネイオミが目を覚ますとブロラハンの姿が見えませんでした。
「今日は外に出ちゃ駄目よ」と言って、フーアは安楽椅子に躰を沈めて編み物をしていました。
「どうして」
「危ないわ」
 ネイオミはフーアの傍に腰掛けると、暖炉に当たりながら、
「ブロラハンはどこへ」
「海へ出てる」
「海?」
「夕飯までには帰って来るわよ」
 ブロラハンは晩になっても帰って来ませんでした。強い風が家の外で吹く音を聞く内に、ネイオミは心配になり、相変わらず編み物を続けるフーアに向かって、
「ちょっと、探しに出て来ようか」
 フーアは顔を上げると、ネイオミを見ました。何かを心に決めている様な表情でした。
「フーア?」
 急に表の扉が開くと、傷だらけになったブロラハンが入って来て、そのまま床に倒れ込みました。
 どうした事かまるで分からないネイオミの脇を通り過ぎ、フーアは直ぐ様ブロラハンの傍に寄り添うと、手当を始めました。
「ネイオミ、お湯持って来て。早く」
 そうして二人は夜通しブロラハンの介抱を続けました。

 明くる朝、ネイオミはすうすうと眠るブロラハンを見詰めながら、
「教えて貰えるのかな」
 窓から差し込む冷たい朝日を、フーアは目を細くして眺めています。
「そうね」と言って、
「ここを降りた所に、町があるでしょう。海端の」
「うん」
「あそこにはもう、誰も住んじゃいないのよ。あたしとその子も、元々はあそこで暮らしてたんだけど。皆死んだわ」
「何があったの」
「港町だから、皆漁で暮らしを立てていたんだけれど。その子の父親、あたしの旦那もね。何年になるのか知ら、くじらの子どもを捕ったのよ。子どもでも、大きいから、捕れば町が潤うでしょう。それで、町を上げて、くじらの子どもを捕った」
 フーアは続けました。
「くじらの子どもを捕って、殺した。皆で。そこまでは良かったんだけれど、今度は親が来た。子どもの血のにおいが分かったのか知ら。あの町で殺された事を知っていた。それで、復讐に来たのね。放っては置けないから、男達は討伐に出たけれど、帰って来なかった。皆殺された。それでもくじらの気は収まらなかった。多分、子どもの殺しに関わった者全員に始末を付けるつもりなんでしょうね」
「それなら、海へ出なければ良いんじゃないの」
 何でもない顔をして、フーアはネイオミを見ました。
「呼ばれるのよ。順番に。離れた所まで逃げても、駄目みたい。それで残された者も少しずつ、海へ出てはそれきり」
「呼ばれるって、どう言う風に」
「あたしは未だ呼ばれた事ないから、わかんないわ。でも、もうそろそろでしょうね。次はあたしの番だわ。その子の後には、あたしだけ。あたしが死んだら、本当に誰も居なくなる」
 ブロラハンの包帯だらけになった躰は、寝息に合わせてふかふかと上下していました。穏やかな顔をしているので、夢を見ているのだろうかとネイオミは思いました。
「その子は天才だわ。もう三度もくじらの殺意を凌いだ。流石にあの人の血が流れてる。だから余計に苦しまなくちゃいけない」
 フーアはブロラハンの額にそっと触れると、言いました。
「あたし達は、生贄なのよ。可哀想に、この子はくじらの子どもを捕った時、未だあたしのお腹の中に居たのに」

 怪我の治ったブロラハンを連れて、ネイオミは岬から海を遠くに眺めていました。西日を照り返して波のささくれが真白に光り、ずっと向こうの空の縁まで静けさが広がっています。
「あの海に呼ばれるんだね」
 ブロラハンは黙って海を見ています。
「くじらって、どんなの? 私は見た事がない」
「おれ」
「君はくじらとは違うだろう」
 それきり、二人共言葉を交わす事はありませんでした。

 凪いだ海を渡る様に、時間は静かに流れました。ネイオミは親子との暮らしにすっかり親しみ、嘗て逗留して来た場所の内、ものは最も少ないけれど、最も穏やかな気持ちで過ごしています。
「近付くと呼ばれるかも知れないから」とフーアが言うので、ネイオミはブロラハンを伴わずに一人で町に降りて来ました。聞いた通り、人いきれのない往来を歩けども、寂しさが増すばかりでした。港町らしく、そこいらに漁具や桶等が散らかっており、商店を覗くと中の品物はそのままになって風化していました。
 枯れた池のある広場を通り過ぎると、少し町を外れた所に小さな家が建っていました。中はめちゃくちゃになっており、ネイオミは苦労して隙間に入り込むと、奥で木箱に入った珊瑚の櫛を見付けました。持って帰ってフーアに渡すと、彼女はそれを大事そうに両手で包み、
「ありがと」と言って美しく微笑みました。

 夕飯のパンをくるみのスープに浸していると、ブロラハンは手を止めて動かなくなりました。
「食べないの」と声を掛け、フーアの顔を見た時に、ネイオミは全てに合点が行きました。
「呼ばれたんだね」
 ブロラハンは黙って席を立つと、家を出て行きました。後を追うネイオミをフーアが呼び止め、
「どこ行くの」
「ブロラハンの行く所」
「死にたいの」
 ネイオミはフーアの視線を正面から受け止めると、
「彼を連れて帰る」
 と言うなり、ブロラハンを追って外へ飛び出しました。

 空のずっと高い所で、月が小さく光っています。海へ続く道を行き、浜まで降りると、頼りない月明かりに薄っすらとブロラハンの大きな肩が浮かんでいました。
 近くまで行くと、彼は一艘の小舟を引き摺って、波打ち際に向かう所でした。
「ブロラハン」
 後ろから声を掛けると、ゆっくりとネイオミの方へ振り返りました。
「あんた」
「私も乗せてくれ」
「おれ」
「君を放っては置けない」
「あんた」
「頼む」
「あんた」
 ネイオミは一度言い出すと聞かない性分でした。短い付き合いではありますが、ブロラハンはその事を承知していたので、ネイオミを自分の舟に乗せてやる事にしました。
 海は静かでした。いつかブロラハンと見下ろした所に自分は居るのだと思うと、ネイオミは心細い気持ちになりました。ブロラハンは黙って舟を漕いでいます。ぎい、ぎい、と言う音が遠くまで響く様に思われました。
 随分永い事、そうして海を進みました。段々と月の明かりが冴えて来たらしく、舟の組み木の、細かな木目まではっきりと見えるようになりました。
「あんた」
 不意にブロラハンは言いました。
「どうしたんだい」
「おれ」
 こちらに背中を向け、舟を漕いでいる姿を、ネイオミは非常に嬉しい気持ちで見詰めました。ブロラハンの言葉に、ネイオミは深い感動を覚えたからです。彼よりも多くの言葉を知っていても、この感動をどう表現すれば良いのか、ネイオミには分かりませんでした。
 ブロラハンは舟を漕ぐのを止めると、舟底のモリを取りました。その動作でくじらが近い事が分かったので、ネイオミも腰の刀を抜きました。
 夜の闇よりもまだ黒い、小山の様に大きな影が、海から迫り上がって来ました。飛沫を散らしながら牛の様な声で鳴くと、ゆっくりと身動ぎをしました。どう言った風になっているのかネイオミには分かりませんでしたが、こちらを向いたのだろうと考えました。
 そうして激しい戦いが始まりました。ブロラハンはモリを巧みに扱い、猛然とくじらに立ち向かって行きますが、ネイオミはくじらの無数の触手や、取り巻きの小さいくじらの角や牙をやり過ごすのに精一杯でした。しかしながら、くじらについて分かって来るに従って、段々とその動きに慣れ出し、あちこちから迫る触手を一刀に斬って落とす鮮やかな腕前に、ブロラハンも思わず息を呑みました。
 ネイオミは女でありながら、お殿様の武芸指南役を仰せ付かった事もある達人でした。政変によってお城を追われてからは当てのない旅を続けて来ましたが、そうした身の上も、決して悪いものではないと考える様な、暢気な性格でした。
 一進一退の攻防が続き、二人は疲れ切っていました。相手にも同じ事が言えるらしく、暗い海の上で、二人はくじらと睨み合っています。そうした時の海はやっぱり静かで、自分の上で何が起ころうと、てんで関心のない様な素振りをしています。
「ブロラハン」
 ネイオミは言いました。
「次、触手が来たら、受け止めて掴んで置いて欲しい」
「おれ」
「それを伝って行って、私は頭を叩く」
「あんた」
「終わらせよう。ブロラハン、君は決して、生贄なんかじゃない。だって君は戦っている。君の仲間は、くじらの子どもを殺した。くじらは君の仲間や、お父上を殺した。それならもう、理由は要らない。私からは何も言えない。この戦いは君達のものだ。しかし私は、君に死んで欲しくない。くじらに恨みはないが、助太刀させて貰う。これは君達の為にやるんじゃない。自分の為に、勝手にやるんだから、仮に私がしくじって死んだとしても、気にしてくれるな」
 話し終わるのを待っていたかの様に、くじらは大きな咆哮を放つと二人に向かって数多の触手を伸ばしました。
「ブロラハン!」
 ブロラハンは触手を纏めて引っ掴むと、ありったけの力で突っ張りました。くじらと綱引きをする様に、ぐいぐいと締め上げます。
 ネイオミは張り詰めた触手の束に飛び乗るなり、辷る様に渡って頭へ上りました。黒々とした丸い頭の真中に、大きな一つ目が彼女を睨んでいます。
「済まない」
 触手がネイオミを捉える為に迫りましたが、彼女は矢の様な速さで目玉へ飛び掛ると、その勢いで刀を突き立てました。途端に地鳴りのする様な低い悲鳴が辺りを震わせ、激しく身を捩らせるくじらの上で踏ん張りが効かなかった為に、ネイオミは暗い海へ投げ出されてしまいました。

 山間の小さな集落に生まれたネイオミは、山に埋もれた場所で、山に埋もれるなりに、静かに暮らしていました。指に留まった蝶を、脚を置く所がないと可哀想だからと言った理由で払えずにいる、少し変わった子どもでした。
 ある時、お上から何かの視察に訪れた武官が滞在の折、気まぐれに子どもの遊び相手をしていました。ちゃんばら遊びの様な事を子ども達に教え、自らもそれに混じり、無垢の心に触れる事で日々の明け暮れに纏わる憂悶を晴らす術としていました。その様なささやかな楽しみだったので、武官は子ども達を相手に勝つ事もあれば、負けてやる事もありました。
 女の子だった為、いつもこちらが負けてやっていた子どもを相手に、どれ、一つここは勝って威厳を示す頃合いだろうと考えた武官は、その勝負に際して勝てる程度に手を抜き、競った末に負けました。おかしな事もあるものだと、もう一度挑み、再び競り負けました。
 日の暮れるまで負け続けた武官は、疲れたから帰ると言った女の子の後ろ姿を見送りながら、自分は相手に合わせたつもりになっていたけれど、向こうが自分に合わせていると言う事も、あると知り、深く恥じ入りました。
 武官が集落を去り、暫く経った後、お上から使いがやって来ました。使いは出迎えの一団を見るなり、ネイオミと言う子は居るか、その子を仕官させたいと告げました。丁度彼女が山に入り、湖の畔に座って、小さい亀が大きい亀の甲羅に乗っかって昼寝しているのを、じっと見詰めている頃でした。

 目を覚ますと、ネイオミは大きな背中に背負われていました。ブロラハンの香りがしたので、彼女は目を閉じて首に腕を回すと、背中に深く顔を埋めました。

 再び目を覚ますと、目をまん丸にしたフーアが覗き込んでいました。
「あ」と言うなり、フーアの目からまん丸の涙が落ちて来ました。
「やっと起きたわね。もう。連れて帰られたのはどっちか知ら」
 ネイオミは力なく笑い、
「面目ない」
 そうして身を起こし、辺りを見回しました。
「ブロラハンは?」
 フーアは涙を拭い、落ち着いた顔でネイオミを見ると、
「第二ラウンドよ」
 途端にネイオミは布団を跳ね除け、戸口へ走り寄りました。海へ投げ出された時の様に、頭から水を被った心地になりました。
 暖簾を押して外へ飛び出すと、馬に水をやっている大男が目に入りました。お天気の良いお昼下がりで、筋雲があっちから向こうへ、薄く糸を引いています。
「ブロ、……。え。あれ?」
 ブロラハンは振り返り、真剣な顔をしたネイオミに顔を向けました。ネイオミはその時初めて、ブロラハンの笑う顔と泣く顔を見ました。
「だ、第二ラウンドは? どこだ」
 取り乱すネイオミを、後ろからフーアが抱き締めました。
「冗談よ」
「じょ、……」
「ありがとう。ありがとう」
 ネイオミは背中が温かくなるのを感じました。フーアの涙が染みて、それで温かいんだろうと思いました。

 旅の支度を終え、ネイオミは棚の埃をはたいています。お世話になった場所はきれいにしてから去りたいと言う気持ちからでした。自分の使っていたお皿や寝間着が、きちんとあるべき場所に収まっているのを確かめると、彼女は安心して外に出ました。
「忘れ物はないか知ら」
「フーア。ハンカチ」
「あら。あら。……あ、お弁当はどこに仕舞ったっけ」
「ブロラハンの鞄に、纏めて入れた気がするけど」
「おれ」
「どれ。どれ」
 ネイオミは町を片付ける気で居ましたが、その前に三人で旅行に出る事になりました。ブロラハンの教育に良いからと意気込むフーアの言い分に、ネイオミが納得したからです。
「それでは出発ー」
「西の方に行ったら都会があるらしいから、先ずはそこを目指そうか」
 後ろでフーアが騒ぐので、振り落とされやしないかと心配になりますが、馬はすっかりブロラハンに懐いているらしく、大人しく引かれるままになっている様です。
 来た時には紅葉の鮮やかだった森は、甘い新芽を吹き掛けています。帰って来る頃にはどんな具合になっているか知らと考えながら、ネイオミは大きな荷物を背負って歩くブロラハンを眺めました。
 ともあれ、少しばかり賑やかになった彼女の旅は続きます。道の先には、新しい出会いや冒険が待ち受けているでしょうけれど、それらはまた別の機会に。(了)