あの人

 家からの距離が近かった為に、私は幼少の時分、平日のお昼間は父親の実家に預けられていた。国道を外れ、田んぼの隙間を通って山の方へ抜けた所にある、小さなお屋敷だった。家の裏庭には、奥の山が被さって陰になった所に小さな鶏小屋があり、中にうるさい鶏が二三羽入っていた。私はその鶏にちょっかいを出しに行くのが好きだった。
 父親の実家には、祖父母とりんちゃんが居た。りんちゃんは私よりも一つ歳上だと聞かされていた。そうするともう小学校へ上がっている筈だったが、どこへも行かずにいつも私を連れて家の中や周りをうろうろしていた。
 りんちゃんがどこの子どもなのか、この家とどのような関係があるのかは分からなかった。今にして思えばおかしな話だが、当時は何とも考えてはいなかった。祖父母も何も言わなかったし、私は遊び相手が居る事が嬉しかった。
 私が小学校へ上がっても、父親の実家へ行くと変わらずにりんちゃんが居た。りんちゃんは私を見ると照れ臭そうに笑い、それから一緒になって庭の鯉に餌をやりに行ったり、裏の鶏をからかいに行ったりした。癖のない真黒の髪の毛は、いつも祖母が切ってやっているそうだった。肩より下まで伸びると直ぐに切られちゃうのよと言って、りんちゃんは自分の髪を細い指で触った。
 私が中学校へ上がると、誰から聞かされると言った事はなかったが、りんちゃんの素性が薄っすらと分かり掛けた。私は父親の実家へ行くと、縁側に腰掛けてりんちゃんと話をした。同じ話ばかりを、何度も何度もした。りんちゃんは美しく成長していたが、その心は私が小さかった頃から何ら変わっていなかった。何かの病気をしている様で、時折咳き込む度に真黒な髪の毛が一緒になって揺れた。未だ祖母が切ってやっているらしかった。
 私が高校へ上がり暫く経つと、父親の実家からりんちゃんは居なくなった。残った祖父母が言うに、りんちゃんは私の父親の妹に当たる人の子どもであり、父親の妹が一人で生んだらしい。彼女はりんちゃんを生んだ後一人で育てていたが、再婚し、新しいご主人との間に子どもを授かった事と、りんちゃんの病の発覚が重なり、父親の実家にりんちゃんを預けると、それきりになってしまったと言う。祖父母は、りんちゃんは今病院に居ると言った。もうこの家に帰る事はないと言って泣いた。
 木枯らしが窓に吹き付ける音を聞きながら、私は病室でりんちゃんを見下ろしていた。鼻から細い管が伸びている。目を閉じて小さく息をするばかりで、外には何もない。病気に由来するものなのかは知らないが、少し知恵の遅れもあったらしく、まともに学校にも行っていないそうだった。一人で居る時は、床の間に掛かった水墨山水の掛け軸を一日中眺めていたと言う。りんちゃんと声を掛けたが、返事はなかった。私はりんちゃんの知っている話を何度もした。聞こえていようが聞こえていまいが一向構わなかった。同じ話ばかりを、何度も何度もした。
 それからりんちゃんは目を覚まさないまま、幾らも経たない内に死んだ。縁類の間で荼毘に付したが、その列にりんちゃんの母親は居なかった。

 大方の仕事が片付いたので、私は田舎の家へ帰っていた。古い友人と酒を飲み、別れた後、ぬるい夜の風を感じながら田んぼの隙間を歩いている。道の先にはもう誰も住まない家があり、外灯もないので黒々とした山の影と一緒になっている。
 背の低い垣根を跨いで中に入ると、玄関の前に誰か蹲っていた。泥棒か知らと考えたが、酒の回った頭でそのまま近付くと、
「どちらさん?」
 人影はびっくりした様に立ち上がり、
「ねえ。居るんでしょ。出してよ」と上擦った声で言った。
「何かあるんですか」
「分かってるのよ。いつまでもいつまでも、仕方ないじゃないの。何だって、あたしだってねえ、あたしの人生があるじゃない。あんなお荷物抱えて、やってらんないのよ」
 この女がどこの誰かは知らないが、あそこのあいつだったとして、今更何の用事があるのかはやっぱり分からない。
「あんたはじゃあ、何なのよ。まさか、あれの男? アハハ。ばっかじゃないの。意味分かんないわ。止めときなさいよ、あんなのと関わったって、碌な事になりやしない。あれは飛んでもない禍なのよ。あれをどうにかしなきゃ、あたしも引き摺られちゃうのよ。取り殺される。あたしがこんなに不幸なのも、全部あれのせいなんですって。司祭様が仰ってたわ。ちくしょう。どうにかしなきゃ、どうにかしなきゃ」
 そうして玄関の門を大きな音を立てて叩き出したので、私は女を蹴って地面に転がすと、上から顔を覗き込んだ。見た事のない中年の女だった。
「なら、今殺してやろうか」
 女は怯えた様な顔をしてこちらの顔を見ていたが、やがて地面を這って後退りすると、そのままどこかへ逃げて行った。
 懐中から鍵を取り出し、門を開けて中へ入った。真暗で何も見えないが、大体の勝手は分かるので、土間を抜けると靴を脱いで座敷に上がった。茶の間に置き放しになっている棚から灰皿を出し、縁側の雨戸を開け広げると、月の明かりが入って来て足許が白々とした。私は縁側に腰掛け、煙草を吸った。田舎に帰った時にはいつもこうしている。
 あの女の言った事が気に掛かる。しかし女の身に何が起ころうと知った事ではない。あの口振りからするに、誰かにいらない事を吹き込まれたのだろうと思う。全く怪しからん事で、下らない話であの人を侮辱するなと言う気持ちになる。思い出すのも腹立たしいが、もし女の言った事が真実で、身勝手な空想でないとするならば、さっさと取り殺して私の所へ来なさい。(了)